言語が分かると街中の看板、街ゆく人の聞こえてくる会話、テレビのニュースなど普段意識しなくても自然と聞いてしまう、見てしまう情報を無意識のうちに拾ってることがある。時にその情報を起因とした感情の揺らぎが出てくることもある。
ジャーナリングやブログ記事を書いてる時。日本で書いてるとやたら人目が気になる時がある。そんなの誰も見てないと分かってもそう簡単には克服できない。
カフェで作業してる時、隣の人が職場の陰口を言ってた時。少し感情が掻き乱されてしまう。
テレビを見てたら、将来について希望が持てないような話題ばかり取り上げて気分を暗くしてしまう。
そんな受動的に受け取るノイズを言語の壁は守ってくれてる気がする。
ジャーナリングしてても読まれない。隣の陰口も聞こえない。テレビのニュースも入ってこない。
脳に入れる情報を言語でフィルタリングできることに最近気づいた。半分デジタルデトックスをしてるような気分だった。
言語がわからないからといって、情報が手に入らないわけではない。今の時代、翻訳アプリを開けば看板は読めるし、AIに聞けば現地のニュースだってわかる。必要な情報は自分から取りにいける。
ただ、取りにいかない限り入ってこない。これが大きい。
日本語環境では、情報の蛇口が常に開いている。閉じるには意志がいる。言語の壁がある環境では、蛇口は閉じている。開けるには意志がいる。情報との関係が、まるっきり逆になる。
,最近読んだ東浩紀の『弱いつながり 検索ワードを探す旅』に、「海外に行くことが多いのは、日本語に囲まれている生活から脱出しないと精神的に休まらないから」という一節がある。まさにそれだと思った。そして同時に、「ネットでいくら情報が公開されていても、特定の言葉で検索しなければ手に入らない」とも。現地に行くからこそ、検索すべき言葉に出会える。
言語の壁は、要らない情報を遮り、その土地でしか得られない情報へ向かわせてくれる。壁というより、フィルターに近い。使い方次第で、それは旅の武器になる。
そんなことを思えるようになったのも旅のおかげかもしれない。